2008年11月23日

映画「ひめゆり」について(公式チラシより)

“忘れたいこと”を話してくれてありがとう。 Cocco

長く沈黙を保ってきた「ひめゆり学徒」
第2次世界大戦末期、沖縄では住民を巻き込んだ地上戦が展開されました。15歳から19歳の女学生たちも戦場動員され、献身的な看護活動の末、多くが亡くなりました。「ひめゆり学徒隊」です。あまりにむごい体験をへて生きのびた生徒たちの多くは、戦後長く沈黙を保っていました。
13年の時をかけ、生存した女生徒22人の
言葉を丹念に紡いだ作品

繰り返し映画やテレビ、舞台で取り上げられ「聖なる人々、殉国美談、反戦の語り部…」さまざまなイメージが「ひめゆり」にはつきまとっています。私自身には重すぎるテーマでした。しかし縁があってひめゆりの生存者の方々にお会いしてみると、私がわかったつもりになっていたのは余りに表面的なことにすぎないと気づき愕然としました。
ひめゆり学徒たちの思いと体験は、それを伝える側の気持ちが強すぎるあまり、かえって耳を傾けてもらえなかったり、断片として切り取られ伝えられることが多かったのです。沖縄の親戚の家に泊まり込み、彼女たちの証言にじっくりと耳を傾ける日々が始まりました。果てしない記録は今も続いています。

監督 柴田昌平

公式HP
映画「ひめゆり」公式HP
posted by 佐倉東高校演劇部 at 10:17| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

朗読「SAKURA/OKINAWA」について

SAKURA 1907(明治40)年に佐倉女子技芸学校として創立した、現・佐倉東高等学校。戦時中は、佐倉高等女学校の時代にあたる。その佐倉高女に1941(昭和16)年入学、1945(昭和20)年卒業の同窓生の会に「丹鈴会」がある。「丹鈴」とは「赤い鈴」の謂、また卒業年の「二〇(にれい)」に因む。この会が卒業50周年にあたって編纂した『卒業五十周年記念誌 丹鈴』。そこには、太平洋戦争「開戦の年に入学し、終戦の年に卒業」した同窓生の稀有の体験が綴られている。リーディング前半は、この記念誌の文章を再構成し、佐倉東高の現役生・卒業生がこれを朗読する試みである。
OKINAWA 次いで、伊波園子著『ひめゆりの沖縄戦  少女は嵐のなかを生きた』「沖縄戦前夜」の章を朗読する。そこに描かれているのは、米軍が沖縄本島への艦砲射撃・空爆を開始する1945年3月23日以前の、ひめゆり学徒の日常。
SAKURA/OKINAWA 『丹鈴』のなかで、のちに千葉から沖縄へ移り住んだ方はこう書きしるす。「『終戦』と言っても地上戦闘が行われた場所とそうでない場所では深刻と切実さの度合が違う」と。また、別の方は「広島、長崎の方々やひめゆり女子学徒のような本当の苦しみ悲しみは分かりません」と書く。なるほど、沖縄では住民を巻き込んだ地上戦が展開され、目を覆うばかりの悲劇を生んだ。ただ、伊波氏の描く、少なくとも「沖縄戦前夜」までの女師(沖縄師範学校女子部)の情況は、『丹鈴』に見る、当時の佐倉高女のそれに酷似している。沖縄と佐倉という、遠く隔たった二つの地点ながら、彼方と此方の情況がオーバーラップし、そしてその同時代性を浮かびあがらせる。日常のなかにじわじわと浸潤してくる戦争。が勿論その後、1945年3月23日を境に、彼方と此方の命運は大きく分かたれることになる。
もっとも「戦争を知らない」世代である私たちにとっては、『丹鈴』の頁を繰ること自体、既にして驚きに満ちた経験である。これがよく見知った佐倉の、ほんの60数年前の光景なのかと。ましてや沖縄における「戦争の現実」を見聞きするにつけても、おのが《想像力》が、そのあまりに凄惨な《現実》にとても追いつかないという、暗澹たる思いにとらわれる。だからこそ、共有する努力をしたい。戦時下の佐倉から同時代の沖縄へ。そして、あの想像を絶する“鉄の暴風”下の沖縄へ。この佐倉の地から、あらん限りの想像力をふりしぼって、あの沖縄の悲劇に向き合いたい。

映画「ひめゆり」を佐倉で上映する会

posted by 佐倉東高校演劇部 at 10:03| Comment(0) | TrackBack(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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