ふかい《祈り》にみたされた劇
ブイン1コモン1の演劇部による1人劇。徹頭徹尾そぎ落とされ、ギリギリのところまで切り詰められた、そのアトにのこったもの。ピュアなものラディカルなもの。
この劇は、玄関のチャイムの音が鳴りひびくシーンで幕をとじる。その最後のシーンをボクはあれこれと演出したおぼえがまるでない。チャイムの音がし、そして床に横座りした彼女がカラダを捩って扉のほうへ振りかえるのだが、彼女はベツに演出の要請があったからそうしたわけではなく、彼女の直感がそのような姿勢をとらせたのだ。はじめて見たときから彼女の、ピンと背筋を伸ばして扉のほうへ振りかえるその姿勢に、ボクは、なんといったらいいだろう、いわば崇高さのようなものを感じとっていた。
その後、ボクは鷲田清一氏の『「待つ」ということ』という本に出会い、なにごとかを了解した。氏はその本のなかで述べている、「希望ではなくあらゆる希望の兆しの断念ののちに」「もうなんの到来をも待ち受けないでひたすら待つともなく待つ」そのいとなみこそ《祈り》である、と。
この劇は、ふかい《祈り》にみたされている。しかも、それは巧まずしてそうなったのだ。
掌をあわせ身を丸めこむ「防禦」のかたちとしての《祈り》から、重力=運命に屈することなく凛として「待つこと」のかたちとしての《祈り》へ。内がわにむかっていったん閉じられたものがふたたび外がわにむかって開かれていく。
ここに、凛として、うつくしい、祈りが、ある。
2006年11月25日
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